ウーマン村本さんの炎上から考える 日本の多様性と寛容性について
最近、ヤフーニュースではウーマン村本さんの話題が良く目につく。
ヤフーニュースでは政治や国際情報の情報もあるが、スポーツ・芸能情報を重きを置いたサイトだ。実質的にはスポーツ新聞と同質であり社会的意義の低い、いうなれば娯楽サイトだ。
その考えから、スポーツ新聞コンテンツで注目されるウーマン村本さんの発言に関しての社会的重要性は高くはないと考えている。さらに言えば、専門家でもない人の意見は他の普通の国民同様に一個人的な意見に過ぎない。一個人の意見をコンテンツ化させてしまうことは理解しがたい点でもある。
一方で芸能人が個人的な意見を発信することは悪とも考えていない。彼はツイッターという私的サイトで主に情報発信をしてきた。この行為は何の問題もない。
村本さんの意見を見ると共感できない点はある、もちろん批判したい人が彼の意見を批判すことも自由で問題はない。私も共感できない点はあるが、前述のように問題行動であるとは考えない。
だが、どうも村本さんの炎上から見ると、共感できない意見を発信することに対して問題視する声が多い。どちらかといえば、炎上で村本さんをたたいている人のほうが問題行動を起こしているわけだ。
その問題行動は下記3点に抵触し民主主義を阻害する行為になっている。
・言論の自由の否定
・個人の人権の否定
・多様性の否定
■批判と民主主義阻害の線引きとは
私はこの問題が出てしまっている要因に、ネット民は批判の仕方がわかっていない人が多いのではないかと考えている。
線引きはわかりやすく言えば
a)共感できない点・間違っている点を指摘する→批判
b)共感できない意見を言う人に対し悪と断罪し人格否定をする→人権侵害
c)フェイクニュース拡散をした行為を批判する→批判
d)フェイクニュース拡散をした人の人格否定をする→人権侵害
私は村本さんの場合は行うべきはa)のケースだと思うが、実際にはb)の考えで断罪する人が多いことに驚く。さらに、そうした人権侵害に共感する人が極めて多いことも驚きだ。
■なぜ人格否定を容易に行うか
ネット民が村本氏の人格否定に走ってしまう一つの理由は、多数派(と思われる)の総意からはずれた意見を主張しているためだ。
この多数派(と思われる)の総意からずれた意見の主張とはわかりやすく言えば「空気読めない」という行為に該当し、近年の日本では叩かれる要因になる。日本では集団の総意からずれたことを行うことは無条件で悪になる。
この暗黙のルールを村本氏は破っているため、多くの人から制裁攻撃を受けてしまっている。
また「共感できない発言で不快に感じた」という事象も悪になる。日本では、人を不快にさせる行為は「迷惑」行為として断罪される。ようは、人とずれたことは日本では極めてリスキーであり、あたりさわりのない「普通」が日本では生きるさいには強要される。
日本に自由はあるか?
私はないと思う。
■共感できない意見をどう捉えるべきか
「民主主義や個人の人権」を守ることを目的での私の主張になるが(逆に言うならば、民主主義に反対する人にとっては守るべき対象の話にはならない)、まず人はみな違う人格者であることを認識すべきだろう。
そんなことを言えば、日本でも千差万別という言葉があるように、そんなことはわかっているといわれそうだが、実際には
「連帯責任」
「成人した人でも親の責任を追及する」
「会社は関与していない従業員のプライベートの不始末を経営陣が謝罪する」
など、戦前機能していた村社会の連帯責任システムが現代にも生きており、法で責任を問われない対象にたいしても日本社会は責任を追及する。これは、人はみな違う別人格であるということを認識していないことの裏付けになる。
個々皆違う人格者であるということを認識し、違いを容認をする寛容性を持つことが日本の民主主義を発展させ多様性を促すことになるだろう。